このベンチの写真を見て思い当たることのある人は
実に私と同じで粗忽者である。
なんとなれば、これは濡れたベンチに人が座った跡だからだ。
夏ならば水滴が拭いとられている幅はもっと狭いが
いまはコートを着るのでこのくらいの幅になる。
なぜにこんな濡れたベンチに座るのかというとだな、
座りたくて座るわけではない。無意識で座ってしまうのだ。
疲れてどっこいしょではない、思わず座ってしまうのだ。
たとえば携帯が見あたらない、カバンをかきまわさなくちゃというときは
立ってカバンを提げたままでは具合が悪い。
そういうときに思わず無意識に腰をおろしてしまうのだ。
無意識に腰を下ろしてカバンを膝に乗せてごそごそかきまわしているときに
じわんとお尻が冷たくなって、ああやってしまったと思うのだ。
雨が止んで油断して、
公園の端っこの石垣の石に腰を下ろしてメガネをさがそうとしたら
その石は中心が少し窪んでいて、
極端に言えば水たまりに座った状態になったことだってある。
世の中はけっこう水たまりが多い。
そういえばホースで水を撒いていたときに先端のノズルがはずれて
アタマと下半身がびしょ濡れになったこともある。
それも一度や二度ではない。
うちのノズルははずれやすいのだ。冬の朝っぱらから冷水はきつい。
なぜアタマと下半身が濡れるのかというと、
ええっと驚いてホースを見たときに上向きにするからまずアタマに水がかかる。
それで髪が濡れてあわててホースの向きを下にするので下半身が濡れる。
自分に向けるな。はい、その通りです。
しかし、ホースを外向きにすると庭の植物にかかってしまう。
ノズルなしのホースから直接水がかかると土が流れて...
と、面倒な説明は省くけれど、とにかく庭には向けられない。
しかし本当に世の中は水難に満ちている。
気をつけなくちゃと思っているときはいいが
無意識にやってしまうのだから本当に本当に困っているのだ。
ところで、柴女史の母からいただいた高菜炒めは
私にとってギリギリのピリ辛で刺激的でなかなかうまくて
順調に食べているのだけれど
これに納豆を混ぜるふとどきな人物がいることを発見した。
私は西で生まれ育っているので納豆は敵である。
しかしいまや適地で生息しているのだから敵がそこに存在することについては
あれこれ言える立場ではない。
しかし、いかに納豆好きとはいえあれこれ混ぜるのはいかがなものだろう。
こういう難儀は何と呼べばいいのだろうか(さ)