黒部峡谷は大雑把にいうと(なんでも大雑把だが)
黒部ダムをはさんで下流を「下の廊下」上流を「上の廊下」という。
中の廊下はダム湖に沈んでいる。
厳密にいえばダムの下流にも「中の廊下」が
はみ出ているような気がするが、この際うるさいことは言わない。
道もないのになぜ「廊下」と呼ばれるのか
立山と後立山の隙間に細長く横たわるからか?
そんな単純なことではないと思うが、
わからないしわかるすべも今はないので放置するしかない。
下の廊下には渓谷に沿って登山道があるが(毎年落ちて死ぬ人がいるが)
上の廊下は登山道どころか手がかりも足がかりもなく
あるときは渓流を泳ぎあるときは急流を横切り、
またあるときは岸壁をよじ登って進まねばならない。
その上の廊下が終わると、次は奥の廊下と呼ばれる谷が待っており
それを超えると黒部川源流ということになるらしい。
(上の廊下は下のURL参照)
http://mscc.outdoor.cc/m306kaminorouka/m306kamino-rouka.htm
http://www.geocities.jp/letsgomountain/002ueno01.html
http://www.geocities.jp/kakumotoaki/chronicle/2004/20040808kaminorouka.htm
我ながら実にいいかげんな説明だ。
しかし黒部が加賀藩の領地だったころ
地元民が茫漠ととらえていた峡谷の地理もこの程度ではなかったか。
なにしろ地図のその部分は白紙または想像図だったのだし
藩の役人以外は侵入を禁止されている。
もし誰かに訊ねられても
「谷がだんだんと狭くなって」(そりゃそうだ)
「千尋の崖の下に水が流れとって」(千尋は大げさだ)
「熊でも落ちて死ぬことがあるだ」(真実だ)
「人の背丈の三倍四倍も雪が積って」(さもあろう)
「しょっちゅう雪崩が起きて」(これも真実だ)
そんなところへは行かない方がいいとしか言えない。
距離もおそらく何里何町ではなく
邪馬台国の水行十日陸行一月のように
ここから何日の行程という具合に時間で測っていたのではないか。
私としてはまったくそれで差し支えないのだが
日本の地図に1カ所くらい水行十日陸行一月の部分があっても
実にかまわないのだが、日本の土木は茫漠を許さない。
昭和のはじめのトンネル工事にしても
こっちと向こうと両側から掘り進めて双方が出会ったときは
わずか1.7センチの狂いしかなかったという精密さである。
その精密さの根底には測量の精密さがあり
その測量のために、秘境黒部の廊下に測量隊を送りこむために
またしても岩を削る青の洞門作戦で
かろうじて人が一列に歩ける歩道がつくられていったのだった。
(下の写真はその歩道の一例)
欅平でトロッコ列車を降りると
そこから仙人谷までは1000メートルの等高線に沿って水平歩道を、
その先は日電歩道を歩いて黒部峡谷をさかのぼり(高所恐怖症の人は無理)
黒部ダムまで行くことができる(二日かかります。山小屋あります)
はじめに書いた下の廊下の登山道というのがこの水平歩道と日電歩道で
大正9年に完成した水平歩道こそが、もしかしたら
黒部川上流はじめての土木工事だったかもしれない(青の洞門だとしても)
ところで大雑把といえば最近こんな会話があった。
「僕、ワカメや昆布が好きなんだけど、昔は海の生き物だったのかな〜」
「だいたい生物はみんなそうだけど」
「あ、大昔はそうだね」
4億年の時間差を「むかし」と「大昔」で片づけてしまうとは
天下無敵の大雑把である。
数字という正確な言語がもしなかったとしたら
人類の歴史は大雑把なままで
少なくともトンネルは掘られず、ダムもつくられず
橋もせいぜい丸木橋程度のものだったんだろうな〜(さ)
(それはそれで平和な気がするが)