心ある人々も心ない人もひとまずアホな話をきいてくれたので
やっと「地獄の黙示録」について考える姿勢になった。
ファンタジーなゲームみたいな映画だと言っても
誰にも絶交されなかった。
なにしろ「地獄の黙示録」をいま初めて見るような映画初心者であるから
言うことも書くことも失礼だらけだが、そのわりにみんなやさしい。
さて、この映画のアタマから20~30分くらいのあたりで
いまはなつかしい6ミリテープから
カーツ大佐の声が流れるシーンがある。
私はカタツムリを見ていた。
カミソリの刃の上を這っている。
それは悪夢だ。
鋭い刃の上を死ぬこともなく這っている。
なんじゃこりゃ?と思ったシーンだったが
映画を全部見終わったら妙に印象深くよみがえってきた。
そういえばブラウニングにカタツムリの詩があったな。
いや、カタツムリの詩ではなく、それは「春の朝」という詩だ。
時は春、
日は朝(あした)、
朝(あした)は七時、
片岡(かたをか)に露みちて、
揚雲雀(あげひばり)なのりいで、
蝸牛枝(かたつむりえだ)に這(は)ひ、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。
この詩のなかでは枝を這っていたカタツムリが
ベトナムではカミソリの刃の上を渡っている。
陳腐な言いかたをすれば見せかけの安定、
地獄の釜の上を綱渡りしているような危うさ、異常さが
ふと気づくとカタツムリの映像に化けて記憶に定着していた。
これはブラウニングの詩のおかげだ。
ブラウニングがなかったら「なんじゃこりゃ」のままだ。
一方、エンディング近くではカーツ大佐の朗読シーンがある。
We are the hollow men
We are the stuffed men
Leaning together
Headpiece filled with straw. Alas!
Our dried voices, when
We whisper together
Are quiet and meaningless
我らは空っぽな人間
我らは剥製の人間
互いに寄りかかり 頭には藁が詰まり
その囁き合う声には情もなく意味もない
これもなんじゃこりゃ?と思ったシーンだった。
危うく、なんじゃこの腐った詩はとひと言で片付けるところだったが
アブナイと思って調べてみたら
エリオットの「Hollow men」という詩だった。
(エリオットさま、ごめんなさい)
しかし、エリオットの詩はイメージが定着することはなく
正直に言うと鬱陶しかった。
昔の説教を繰り返されているようだったのだ。
制作された時代にちゃんと見ないといけない映画があるのだなと思う。
「いまさら地獄の黙示録」はなかなか厄介なことになってきた。
いまさら見ると監督の主張が伝わりにくい。
もっともこの映画に主張があるのかどうか
私はどうも「ある」と見せかけてないんじゃないかなんて
思うわけなのだが。(コッポラさま、土下座でごめんなさい)
「地獄の黙示録」を私はキュウリの塩漬けなぞを作りながら
ノーテンキに見てしまったが
発掘すると暗喩や示唆に満ちた映画だったのだな。
というか、すべからく暗喩で構築されているのではないか。
ただ発掘したいかどうかが問題なのだけれど(さ)