昭和29年(1954年)には美女平までのケーブルカーが開通した。
昭和30年には立山高原バスが美女平から弘法まで開通した。
昭和31年にはそのバス道が追分(弥陀ヶ原の手前)まで延びた。
さて、そこからである。
その先は人も資材も通るべき道がない。
いや、道はあるのだがそれは登山道だ。
我々が考える「道」の概念とはほど遠く、6月になっても雪が溶けない。
そんな道を、食料や燃料、宿舎の建設資材などを背負って運んだのが
「歩荷(ボッカ)」と呼ばれる人々だった。
歩荷をどう説明しよう。
強力といってもいまは知らない人がいるだろう。
シェルパといえばわかるかもしれない。
主に百姓をする土地に恵まれなかった山村の人々が携わっていた。
登山といっても今のようにあちこちに食事と風呂のあるロッジやら
山小屋やらがなかったころは衣食住のすべてを担いで山に入ったので
当然のように歩荷を雇った。
歩荷は山に詳しく、山の案内人でもあった。
歩荷が背負う荷物の重さは信じられないほどで
黒部峡谷下の廊下を初めて遡り、
また劔岳の初登頂で知られる宇治長次郎は
百貫(375kg)の荷物を背負って平気で歩いたと伝えられるし
180kgを背負って白馬岳の頂上に立った伝説の歩荷もいるらしい。
ちなみに江戸時代のある宿場の物流記録によると
「一駄」という馬が一度に運ぶ荷物の重さが28貫(105kg)だったそうで
それと較べても歩荷のすごさがわかる。
黒部ダムの工事のときは立山だけでは足りずに
遠く富士山からも集められた歩荷が400人ほどいた。
彼らは男子で最大100kg、女子で40kgの荷を背負い、
二日がかりで立山を越えた。
標高1840mの追分から
標高2300mの天狗平までおよそ4kmをじりじりと登り
天狗平から室堂(標高2450m)までの4kmをさらに黙々と登る。
もうこのへんで下りたいところだが、
そこからさらに一の越(標高2705m)まで1.5kmを登って
一ノ越から1.5kmほど尾根を伝って
東一ノ越(標高2477m)に達したら、やっと荷物をおろす。
*上の絵の赤い線が現在のアルペンルート。赤丸が東一ノ越です、たぶん。クリックで拡大
100kgの荷物は重い。
しかも平地ではない、山なのだ。
黒部ダム建設時の殉職者は171人にのぼるが
そのうち60人が転落事故だ。
当時の様子がわかる動画を発見したので、詳しくは下の動画をどうぞ。
*地図はクリックで拡大できます