上の写真の何を称して「歩道」というのかわからない。
けれども、あれは水平歩道なのだ。
水平歩道は横から見ると岩壁に刻まれた1本の線である。
そも水平歩道とは何ぞやというと
黒部峡谷の左岸の断崖をコの字にくり抜いた道だ。
トロッコ列車終点駅の欅平から仙人谷までの13.6kmの道が
1000メートルの等高線に沿って伸びている。
水平歩道というからには真っすぐな歩きやすい道なのかというと
決してそうではない。
だいたいが道幅70センチ程度、
広くてよかった〜と思えるところで100センチくらい。
ヘッドランプが必要な暗黒のトンネルもある。
川からの高度差がありすぎて川床が見えない。
踏み外すと300メートル下に転落する絶壁もある。
地図を見ると水を汲めるところが二カ所ほどある。
(トイレはありません)
慣れている人が歩いて5~6時間の行程のようだが
私の場合は数歩で引き返すか一生帰って来ないかどちらかだろう。
水平歩道はいまでこそ70センチの道幅があるが
むかしはもっと狭かったし、さらにそれ以前は道がなかった。
トロッコ列車の生みの親であり
宇奈月温泉の恩人とうたわれている山田胖技師(東洋アルミナム)
という人物がいる。
電源開発は鉄道や温泉を生み育てながら発展するらしく
山田技師はあちこちで感謝されているのだが
水平歩道に関しても山田技師の功績に拠るところが大きい。
もともと山田技師は黒部峡谷の全貌を明らかにし
ダム建設のポイントをさぐるという任務を帯びていた。
その調査のために黒部峡谷を訪れたのが大正6年の11月。
その年のうちに宇奈月から黒部川をさかのぼり
黒薙あたりまでを踏破しているが
早くも翌7年の夏には、欅平(現在トロッコ列車の終点)から上流に向けて
はじめての調査隊が侵入した。
もちろん、道はない。
道はなかったが、岩をつかみ木の根に足をかけ、
岸壁を乗り越えてともかく立山に抜けた。
このときの調査隊のコースが
黒部峡谷を分け入る道の基礎になった。
水平歩道が(曲がりなりにも)開かれたのは
大正9年(1920年)のことだった。
昭和11年、仙人谷ダムと黒三発電所(黒部川第三発電所)が
着工になると、この水平歩道を
資材を背負った歩荷(ぼっか。強力のこと)が通った。
コの字に岩を削った道、
崖にボルトを打ち込んでその上に丸太を乗せた桟道、
60センチ間隔で梯子状に丸太を並べた吊り橋。
(歩幅が60センチでないともちろん落ちる)
荷物が何かにぶつかっただけで転落した。
いまはそれより歩きやすい。
現在の水平歩道はさらに上流の日電歩道とともに
関西電力が毎年整備して維持されている。
この維持費に3000万円ほどかかる。
整備はあくまでも「国立公園内の歩道」としての現状維持の整備であり
ひと冬を越して荒れた道をもとにもどすだけのことだ。
毎年それほどのお金をかけるなら
ふたつの歩道をもっと歩きやすい道にという声もある。
しかし、誰でも通れる道になって人が増えることが
いいこととは思えない。
積雪や雪崩以上に峡谷を荒廃させるのは人間だ。
いまでも連休は混雑し、水平歩道の終点近い山小屋は
定員50人のところに200人以上が泊まり
30張のキャンプ地に数倍のテントが並ぶ夜があるという。
私は彼らが落として行くウンコを考えただけでイヤになる(さ)
●下の地図、緑の線が水平歩道です